5月1日からこころのそえぎ日記を移設します。

あまりコメントはいただいたことなかったのですが、
たびたび訪れてお読みくださる方もあり、
お会いしたときに感想をいただいたりしていました。
こんな気まぐれな私めに長い間おつきあいくださり、
有難うございます。

5月1日より「カウンセリングルーム“こころのそえぎ”」の新しいHPを公開し、
日記もそこへ移すことにしました。
http://kokoronosoegi.net/
絵本コーナーもそこで読めるようにしました。
今年は絵本の記事も増えるかと思います。

今後ともよろしくお願い申し上げます。

「にんじんのたね」ルース・クラウス/作 クロケット・ジョンソン/

にんじんの たねを ひとつぶ、 おとこのが つちにまきました。

という場面からこのお話ははじまる。

おかあさんがきて、「芽は出ないとおもうけど・・・」


お母さんは、おとこのこががっかりするのが可哀そうで見ていられなくて、つい言ってしまうんだろうな。
おとうさんも、「芽なんか出ないと思うよ。」 って、ちょっと気の毒そうに言ってる。
お兄ちゃんも来て、「芽なんかでっこないよ」って、ちょっとこばかにしたふうに言ってる。


それでも男の子はにんじんに水をやり、まわりの草をぬいて、せわをしている。
なんにちたっても、芽はでてこない。


家族のみんなは出てくるはずのないにんじんを一生懸命せわしているおとこのこが、きっと失望するにちがいない、がっかりするとかわいそうだと思い、水やりなんかしても無駄だと早くわからせたくて言ってるのだと思う。


で、家族みんなでおとこのこに言うのだった。
「芽なんか でっこないよ」


それでもおとこのこは水をやり、世話しつづける。
芽はでてこない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
芽はでてこない。
・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・・・・・・すると、・・・・ある日
芽が出てきて、



自分の背丈ほどあるにんじんをはこぶおとこのこの絵で、この絵本は終わっている。

おとこのは、どうしてにんじんが芽をだすことを信じられたんだろう?
にんじんのたねが芽を出すという力を信じることができたんだろう?

おとこのは何を守っていたんだろう?
目にはみえないけれど、自分の大切なものを一生懸命守っているこどもはいる。
自分の感性、しあわせだった過去にまつわるイメージ、自分のプライド、自己イメージ、

先に希望を見ているとき、理由のない確信をもって明るいイメージを描いているとき、
そのイメージどおりになることはよくある。

 
不登校の子どもたちを見守る親たちとも、この男の子の姿がだぶる。
「学校へ行かないと、ろくな大人になれないよ」
「学校へ行かないと、社会性が身に付かない」
「学校へも行けなくて、世の中に出られないよ」

いろんな周囲の声に囲まれて、
最初は混乱し、不安でいたたまれない状態におちいるけれど、ふと我にかえるときが来る。
わが子の成長を信じて、適度な水やりとせわをしつつ、ひたすら待つ。

「学校へ行ってないだけで、わが子は真っ当な子どもやん」
「ちゃんと育っているやん」

この根拠のない信頼感はどこからくるんだろ?
多くの経験者の話を聞いていると、なんとなく安心できる。
このまま信じていようと思える。

目にはみえないけれど、ふと子どもが少し大きくなった気がすることもあったりして・・。
「そんなことしてていいの?」
「もっと日に当てなければ」  「風にあてなければ、ろくなことにならないよ」
「ほかのにんじんと一緒にそだってこそ、まともなにんじん」
忠告や懸念の声を聞くこともある。
それでも、いつかきっと芽を出すことをイメージして、せわをつづけている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そうして・・・・・・・・・・・・・時が満ちて、
子ども(にんじん)はみずから芽を出し、
成長し、


大きく自分を実らせる。

幼い日の思い出ワーク

11日のワークの感想をいただきました。

「丁度良いタイミングで今日の勉強をさせてもらいました。


私は何に捕らわれ 見失っていたか…
また母の存在がいかに大きく影響しているか…

親子として生まれた縁を善くも悪くもするのも私の気持ちひとつですね


先ずは頑張りすぎずに我慢しないようにしていきます。(^O^)/」



親の介護もそうですが、親がぼけ始めると、
かかわりが深ければ深いほど、
それまでの葛藤が出てきて苦しくなるんですね。

少し軽くなって母上に対する気持ちが落ち着いたとのメールをいただき、
このワークをやってみてよかったんだと、
こちらがうれしくなりました。。。(^-^)

4月25日ことばの木

一応、今回のはこれで終わりです。「ことばの木」



自分を支えてくれる「人、もの、こと」に気づいたり
自分に自信が出てきたり、
自己セラピーになるワークです。

楽しみながら、いろんなことに気づきが出てきます。

2回、参加してくださった方もいて、
1回目の木がより成長した感じで、見ていてうれしくなりました。

とまあ、そんなで、一度来て経験してみてくださいな。
(これでも一生懸命PRしてるんですよ・・・笑)

あんだんて事務所  午後2時〜4時   参加費1000円  講師 福本早穂
問い合わせ、申し込み FAX075−595-8255
ご連絡先とお名前をお知らせください。折り返しご連絡させていただきます。

鶴見さんのDVD

鶴見俊輔みずからを語る」


DVD作成の段階で予約していたものの、やっと送られてきたのに、
なかなか見る時間がなく、昨日見ることができた。

86歳の鶴見さんが、いきいきと表情豊かに語っている。
子どものように純粋に、あんなに心の底から怒りを感じるなんて、
ニヒリズムではないだろうと思う。
その怒りは、人が(何びとであっても)理不尽に虐げられることに対する怒りだと思う。

そうかと思うと、実に楽しそうに笑う。
ご自分の若いころの悪行(?)の数々をはなすとき、いたずら小僧の目に戻ったり、
ばつが悪いような眼をして照れくさそうにしたり、
表情がくるくる変わるチャーミングな人だ。


16,7歳から20代のころの鶴見さんの目は、ふてくされたよう、
周囲はみんな敵というふうに、世の中に絶望しているようだ。
86歳になって、無邪気な子どものようにまっすぐな目になるまでに、
どんな人生を生きてこられたんだろう。


不信感を奥にたぎらせた目から、人を信じる目になるまでに、
鶴見さんは、自分の目を信じて、人を信じて活動してこられたんでしょうね。
自分の信念と人の信念を大事にして生きてこられたんでしょう。
それは、自分の学問と人の学問をともに尊重してこられた態度でもあるのでしょう。


学者として誠実であろうとする人、その業績を世の中に還元することに意識を向ける人、
自分の人生と学問が乖離せず、学ぶことと生きることが両手を合わせるように一致している人。
そういう人たちと鶴見さんはつながって、日本の良心の土壌を耕そうとしたのだと思います。


鶴見さんの述懐のなかで、高橋和巳がでてきて胸がきゅんとした。
私が知ったころにはもう亡くなっていたけれど、
その頃まったく一人きりで塾にも行かず受験勉強していた私は、
孤独の渇きをいやすように高橋和巳の小説を読みふけったものでした。
全集を買ってもらって、次々に読み継いでいったのでした。


思えば贅沢な時間でしたねー。
当時はひとりで深い悩みの林に入りこんで出られなくなっている気分でしたけど。

今日のちょっとコミ講座「幼い日の思い出」


今日は4人の方が参加してくださった。

体の中に意識を向けて、感じやイメージを味わっていきます。
フォーカシングの応用。
幼い日の記憶をたどっていくと、
涙が出てきたり、あたたかい、なつかしい、胸がきゅんとする
感じがあったりします。


昔遊んだ景色、幼なじみ、母親の声、父の顔

いろんな思いがいっぱいわきあがってきて、
よく話しよく聴きました。

知ってみれば、だれも「普通」の人生なんてないみたい。

肩に頭をくっつけたら

先日、うちのおっちゃん(夫)の肩にほっぺたをくっつけてたら、
おっちゃんの首のところに、ちっちゃい芥子粒みたいなイボが3つ並んでいるのを
見つけた。

何十年ふうふをやってるのに、ちっとも知らなかったなあ〜。
こんなところにこんなに小さいつぶつぶがあったなんて。

これは小さいこどもの目線だよね。
さいころ、親のからだにぴったりくっついていたら、
あごの下にほくろがあったりして、
で、そのほくろに細いほそい毛が出ていて
それをまじまじと見ていた、なんてことあるよね、だれにも。


添い寝の太くて柔らかい母の腕まくらをしていて、
うでのしわとか産毛とかじっと見ていたり、
ときにはつまんだりして、「いたっ!」っておこられたりして。

逆に子供たちが小さいころ、寝かしつけてるこちらのほうが先にうとうとしてると、
まぶたをぴーっとつままれて、「あん、もう〜!はよ寝えや〜」って怒ったりして。


そんなこと思い出してると、なんだか涙がでてくるくらいなつかしい。

ゆるゆるとぬくもりのあるすきんしっぷ
そんな皮膚感覚の思い出が、案外大きくなって人のささえになるんでしょうね。