哀しみとは・・・

1年半ほど前から、ヨガ教室に通っています。
今は、ホットヨガとか流行っていますが、私のは昔からあるオーソドックスなヨガです。
深い呼吸とともにアサナというポーズをとって、体をストレッチしたあと、休息のポーズをします。(要は、体を完全にリラックスさせて大の字に寝る格好。)
寝不足の日は、ことのほかこのポーズが待ち遠しくて、
「はあ〜、やれやれ」と誰よりも早く・・・・寝ついています。
先日はいっしょに行っている娘に「はずかしい」と言われました。ポーズをして数秒後にいびきをかいていたらしい。
先生は笑いをこらえるのに困っていらっしゃたとか。スンマセン。

最後に瞑想に入るとき、先生がヨガの経典の言葉を読んで聞かせてくださるのです。
その中で心に残っている言葉―――。


想念や思索の森に逃避せず、
現実の世界のなかでしっかり生きていきましょう。
日々の目の前のやるべきことを誠実に行って生きましょう。
そのようにして生きていく「かなしみ」は、ヨガが洗い流してくれます。

(正確には覚えていませんが、こんな意味でした。)


人間が肉体をもってこの世に生まれてきたこと、そのものがそのまま「哀しみ」をともなうことだといっているようでした。
いろいろな人と出会い、関係をつむいでいくことは、喜びと哀しみのないまぜになった渦の中を生きていくことでもあるんですね。

生まれた瞬間は、完全無欠の輝きのなかにいた赤ん坊が、
現実を生きていく中で、自分の限界を知り、否定されたり、傷ついたりしながら、
哀しみを知っていくんですね。
哀しみを知るから、人と交じり合い、通じ合える喜びも知ることができる。

本来人は孤独だから、さびしい存在だから、
人と深く分かり合えたとき、
うれしさも喜びも感じられるのでしょう。


ひとりで生きていける、と強がっていた若いとき、
心のなかはいつも吹雪が吹き荒れてまっくらでした。
それが、さびしさだったと気づいたのは、
さびしくなくなってからでした。

小さな明かりが、ぽっと心の中に灯ったとき、
ぞっとするほど冷たく暗い洞窟があるのに気づいたのでした。
気づいてしまったら、
その明かりを失うわけにはいかなかったのです。
その明かりなしでは、
もとの冷え切ったところでは、
生きていけないと思いました。



その「明かり」とは、何を隠そう!
うちのおっちゃん(夫)、
です。