11・・・「学校」は人それぞれオリジナルな体験

不登校」の意味は、単純に「学校」へ行けない、行かないこと、なんですが、
この「学校」というのが、親の世代、そのまた親の親の世代、そのまた親の世代からずっとあったものなので、みんなわかったような気がしてしまいます。でも、よく考えると、ひとりひとりが体験している「学校」というのは、自分が通っていた学校であり、そのときの教室であり、担任の先生、クラスメートなのです。それは時代とともにずいぶん変わって来ています。また地域によっても全然ちがいます。クラスの構成員によってもまた違っています。

 学年ひとつ違えば、随分荒れている学校が、荒れていた学年の卒業とともに穏かになったり、学級崩壊のクラスの隣は、和やかに運営されていたり・・・。それは、教師だけの問題でも、子ども達だけの問題でもないのです。
だから、「不登校」を考えるならば、なにかのせいにして済む問題じゃないという認識がまず必要だと思います。
 「学校」(教室)に行けなくなるということは子どもにとっては、たまたまそのクラスになって、そこがその子にとって、いろんな要因で生きづらい環境になっているのです。

 1960年代後半から社会の産業構造が変わり、サラリーマン世帯が増え、核家族が増え、新興住宅地が増え、長時間労働と長距離通勤、転勤、単身赴任などで家族関係をはじめ、地域でも人間関係が希薄になってきました。ささいな問題でも、日常の人間関係の中で、グチをこぼしあったり、経験者のアドバイスをもらったりしていたのが、一人で抱え込んでしまい、積み重なって大きな重い問題になっていきます。

 子育てから言うと、車社会の到来で、小さい子どもが大人の目から離れて遊べる環境が失われ、子ども同士の生のぶつかりあいや大きい子どもが小さい子どもの面倒をみたり、子どもたちが暗黙のうちに培ってきたルールや遊びの伝承が途絶えてしまいました。就学前に、子ども同士のコミュニケーションや関係のとり方を学んでから、幼稚園や学校へ行くようになっていたのが、多様な価値観や感覚をもって集まっています。
 それでも未だに多人数のクラスに一人の担任、教師はふりつもる報告書や会議で忙しく、問題を抱える子どもも増え、しかも臨時雇用の教師が増えていて、教師同士のチームワークも希薄になりがちになっています。(でも、ほんとうにぎりぎりの努力をして、なんとか連携をとる工夫をしていらっしゃる先生がたもいらっしゃいます。そのご苦労に頭が下がります。)
だれもが孤立感や孤独感を深めやすい環境になってきたとも言えます。

サラリーマンが増えたということは、学歴が職業や収入に反映する人が増えたということです。その中で、親たちは一生懸命子どもにより高い学歴をつけようとしてきました。教育産業が繁盛し、「学校」も進学率を高めることを最優先の課題にしてきました。
(すばらしい授業のできる先生を否定しているのではありません。そんな授業を受けられる子どもの幸福は、すべての子どもにあってほしいと思います。ただ、それが人より高い学歴を得るためためだったり、競争のため、というのが本来の学問とはちがうと思うのです。理想論をあえて、言います。でないと、大事なことを見失ってしまいますから。)

 少しでも人より高い学歴をつけることが、子どもの「教育」というものであり、できるだけ効率よく「教育」することが親や教師のつとめだと信じられてきたと思います。でも、そこには大きな落とし穴がありました。
 まるごとの子ども、人間を受け入れる前に、学力や能力でいつも評価し、比較していくと、自分は自分であっていいんだという自己肯定感が失われていきます。
 人から求められる答えをできるだけ早く正確に答える、あるいは人の期待に応える訓練をしているうちに、本来の自分の求めているもの、自分の気持ちが何だったのか分からなくなってしまいます。
だれかに認められないと、自分を認められなくなったり、自信がなくなります。
そのために苦しい思いを抱えている人、子どもが増えている気がします。

 こういう話をすると、そうした家庭や自分自身の問題を抱えた子どもが、不登校になるのだと思う方もいらっしゃいますが、
どちらかというと、そういう殺伐としたクラスの環境に馴染めない子ども達がその環境(学校=クラス)に行けなくなっていることが多い気がします。

つづく