あの日、たくさんの楽器が遺されて
去年は暑いさ中8月に、地元京都で「不登校・登校拒否を考える全国のつどい」が開催された。
毎月の実行委員会のオープニングで唄ってくれるお父さんがいて、いつもテノールの澄んだ声に聞きほれていた。
ギターの伴奏だったり、アカペラだったり。
それで最後の交流会で同じテーブルになったのをさいわい、恐る恐る「ピアノ伴奏させてください」と申し出てみた。
途端に、目をまるくして「ええーっ!」
さっそく、シューベルトの楽譜を下さって、12月にお手合わせ。
何十年ぶりだろう。
みずみずしい音と声。急に血が通ってくる感じ。
たのしーなあ、音楽って!
新年早々にご連絡有り。ある団体の研修集会で伴奏してくれませんか、って。
いやあ、うれしー!
4半世紀前、おっちゃんと逃げるようにして北海道へいき、着いたところが層雲峡に一番近い町。石炭小屋のような小さなあばら家に、中古のグランドピアノを置いた。(当時、友人が遊びに来て「ほんとに、この家の中にグランドがあるの?」って、笑いながら聞いたのでした。)その小屋に20人ほどの子どもたちがピアノを習いに来てくれた。保育士さんもいた。
そこから、2時間半かけて旭川の音楽教室にも教えに行っていた。
おっちゃん(夫)は、標高1800メートルの山のてっぺんが職場で、それでも年に1回ではなく、週に1回くらい帰ってくる彦星でした。
このあばら家で教えてた子どもさんが、長じて音大に行って奨学金で留学したという話も聞いた。私は手ほどきしただけなので、後の先生が良かったのだろう。でも、うれしいことですね。(そういえば、当時音大受験生もいて、私が引っ越したあとで「受かりました」って報告してくれた子も。)
人家はまばらな地域で、深夜に弾いても平気だった。
あの頃の生活を思い出すと、どこを見ても真っ白な風景が、はるかにはるかに見渡せて、さびしいなんて半端な気持ちじゃなく、自分が真っ白に消去されてしまいそうだった。
ピアノを弾くと、し〜んと雪の中に吸い込まれるように混じりけの無い音が聞こえた。
今思い出しても、なつかしいを通り越して、胸がつまってくる。
でも、今ふりかえると、人口が1万人を切り、年々減少していく町のなかに、
ピアノを弾く子どもが少しでも増えたことを思うと、
ちょっと楽しくなる。
関西へ戻ってくるときに、ピアノを売ってしまい、楽譜だけが5、6箱残っていた。
(ピアノの代金が出産費用になったのだから、当時の経済状態は推して知るべし。)
子どもが生まれ、寝てるときは音をたてられないから弾けない。起きてるときは子どもの世話で忙しい。結局3人の子育てと家業の繁忙が一段落するまでに18年が夢中で過ぎ、だんだんあきらめも錆び付いて、もう一生あの頃のように弾くことなんてないと思っていた。
ところが、急に時間ができた。自由が訪れたとき、訳あって私は失意のどん底で、毎日放心してなにも手につかない状態。
そのころ丁度、ショパンコンクールがあり、2度の優勝者が出なかったあと、15年ぶりに、しかも19歳のリ・ユンディ君が優勝したというドラマティックなニュースがあった。
彼の清冽なピアノの音や自分の音楽に没頭して弾く演奏に魅せられて、つかえながら久しぶりに弾いたショパン。ひどいものだったけど、胸がふるえた。
こんな喜びがあるなんて!
やっぱり、生きてみるもんだと思った。
14年前の今日、震災で亡くなった人の家にもピアノがあったでしょう。
ピアノだけでなく、奏でる人をなくした楽器があちこちに。