ユングとカンサンジュンさんと石原吉郎

近頃ご縁があって、著書に触れた人たち

ユングは、河合隼雄さんとかその教え子の人の著書など読んでいたけれど、
8月にユングの講座をやろうと思いたってから、
そういえばユング自身の著作を(もちろん翻訳だけれど)読んだことなかったな、と気がついた。
ユング自叙伝」をはじめ「自我と無意識(の関係)」その他・・
 読んでみたら、すごく分かりやすい。


そりゃそうだ。
人づてに聞くより、本人に直接聞いたほうが本当に言いたいことがよくわかるものですよね。



その後、カンサンジュンさんのアエラ特集を友人が貸してくれて、(なんと、サインもらってる!)
読んでると「あなたの生き方でいいんですよ」って
肯定してもらえてる感じがして、何度も涙がでた。


石原吉郎の詩も久しぶりに触れた。
「シベリア抑留とはなんだったのか?ー詩人石原吉郎のみちのりー」畑谷史代さんという若い世代の記者が書いている
この本も最近紹介してくださった方がいて、読んでみた。


カンサンジュンさんが、ウェーバー夏目漱石の対比をドイツと日本の近代化の中で論じていらっしゃるので、
その社会の行き着く先のどうしようもない破綻の先に、
石原吉郎がいるのが見えてくる。


その後高度成長期を経験し、バブルがはじけ、
もう後戻りできない崩壊の予感の時代に
私たちはいるのかもしれない。
真っ只中にいると、わからないものね。


この社会のどこにどう自分の存在の意味を見出したらよいかわからなくなっている人たちがいて、
でも、今の社会が置き去りにしてきた何かを
痛みを伴いながら温めているような気がする。
ユングの経験した内界の戦いを
この人たちは闘っているのかもしれない。



ユングは、ペルソナを自己と社会との妥協の産物のように言っていた。


石原吉郎は、死地から生還した目の前に、
あの戦争の意味を問う暇もないような日常があらわれたんだろう。
妥協しようにも集合意識からはみ出してしまった自分を、
ペルソナを形成することができずに苦しかっただろう、宙に浮いていたのは。
自分の存在を真に承認してくれる人が皆無だったことに絶望したんだろう。
とてつもなく悔しかったんだろうな。
どこに向けていいかわからない不条理を感じていたのだろうな。


これはなんだかひきこもりの人の苦悩に似ている。



こんな時代には
自分の素朴な感性、感覚を大事にしてくしかないなと思う。
ねばならない、ではなくて、どうしたいか、なにを愉しい、しあわせと感じるか。
そして、人の感性、感覚も自分と同じように大事なのだと理解すること。


私は、子ども達が愛しいし、うちのおっちゃんが好き。
(腹立つこともあるけどー)

と言える事が、稀有なことなのだと
カンさんの本から知ったのです。
ありがとう、カンさん。